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にわかに胸に湧き起こる
未知なる過去への畏怖が投じた
覚えるも稀な深き畏敬
孤独な姉妹と僕との出会い
 
そして
ひと
時の力をあざ笑うが如く
力強く背をそびやかし
円陣を離れ見下ろす
ひと
 
巨人の母よ 語っておくれ!
夜の帳をかなぐり捨てて
朝の中で教えておくれ
雲間の月に聞かせよう
 
いったい誰に命じられ この英国の地の上に
神聖文字を纏う姉妹が立ったのだ
闇の時代に続くと言われ 
誇りを奪われた不可侵の神よ!
――William Wordsworth (1833)

というわけで、 Long Meg & Her Daughtersに対するワーズワースの詩を訳してみました。
割と意訳でごめんなさい。
これで一本長いの書きたいなあ。
D.W.ジョーンズとかサトクリフとか、憧れです。
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 まさか長年こっそりと通っている絵日記サイトさんまで書籍化とは!
「みんなの寺」http://www.mni.ne.jp/~garyo/


 いやあ、驚きました。
 だってペイントで描いて、htmlでアップしていらっしゃるサイトですもの。
 「寺嫁」なわこうさんの日記、ものすごく和むんですよー。
 ちょっと仏教めいたお話が出ても、生活に根ざしている感じが好きだったのです。
 そういえば……と思ってこのブログの過去の記事遡ってみたら、お嬢さんご誕生のときも勝手に祝福の言葉を述べていたのでした(笑)
 育児ブログ、相変わらず大好きです。
 うちの3姉妹さんとかも和みますよねえ。
 すっかり成長を見守ってます。

 「みんなの寺」さんは、「神代異聞」執筆中にアルビノの事を調べていたときにたどり着いたのがROMのきっかけですから、かれこれ5、6年ばかり追い続けていることになります。
 わこうさんのドタバタな日々とか、塾をやっているときに接したという子供たちの面白い目線とか、ふとした瞬間ににじむ仏教世界への理解とか、それから猫日記とか(笑)
 ここに「育児」が加わって、更新頻度はちょっぴり下がってしまいましたが、やっぱり好きだなあと思うのです。
 「無宗派仏教」って、結構ステキな哲学ですよねえ。
 生活と宗教の優しい結びつきに惹かれるのは、私の梨木香歩への傾倒ぶりからして当然のことかもしれません。

 以前、友人のお母様に頼まれ、梨木香歩の作品を『西の魔女が死んだ』を中心に語る文章を書きました。
 結構気合入れて書いてしまい、もったいないので貼っておこうと思います。

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 梨木香歩は彼女の作品世界において決して読者に主張をしない。
 この物語の訴えるものはなんだろうか、という問いが彼女の作品に対しなされたとき、得意満面で一言に断じるような読者がいたとしたら、それは彼女の作品を読んでいない(あるいは読めていない)のだと認識せざるを得ない。
 最もそれに近いのは癒し、そして調和という言葉だろうか。今では使われすぎ、すりきれて陳腐にさえ感じられるようになってしまった言葉かもしれないが、彼女は作品の中で常にそれらの漠然とした単語を言い表す方法を探しているように思える。
 だが、それは主張ではない。
 梨木香歩自身が模索しているようにさえ感じられるときがある。そして、主張は彼女の本意ではないのではないか。
 彼女はあくまでも一つの「物語」を作ろうとする。目的のための手段、手段のための目的、そういった書き手と作品、テーマとストーリーの観念的な分離が無い。彼女の手で統合された世界である。
 もうひとつ、梨木香歩の立ち位置を考えたとき、思い浮かぶ単語がある。
 neutral。
 日本語で言うのは少し難しい。
 中立、と言うほどに彼女が認識する世界は対立してはいないのだろうし、中間、と言うには彼女はいささか逸脱している。文化、価値観、感情、様々なものを冷静に見つめて、同等に描く。どれか一つを奨励することは無い。neutralであることを声高に叫ぶことも無い。
 ここでも、彼女は主張をしない。
 また、梨木香歩は自己顕示のために作品を書いているのではなく、自己世界の平穏のために紙の上に溢れたものを書き留めているように感じられる。しかし素人のやるような自己満足的でご都合主義の世界観や、くだらない私小説とは違う。幼い頃から物語を必要としてきた人間にはよくあるように、読者の視点を第一として世界を構築している。自分の鑑賞に堪えない物語など作り出すものか、というある種のプライドさえ感じさせる作家の一人であり、私にはそれが好ましい。
 梨木香歩は言語と文化を愛している。日本語と日本文化、という意味ではない。彼女がそんなナショナリストだったら、私の愛する『村田エフェンディ滞土録』も『からくりからくさ』も生まれてはこなかった。『西の魔女が死んだ』も同様である。彼女は確かに自らの思考の根本である日本語を愛し、自らを育んだ日本文化を愛しているのだろうけれど、それらを相対的に見つめる目を持っている。
 西と東。端的に言えば世界の両極は、彼女の描き出す特色のひとつである、と思う。
 読む人にとっては、梨木香歩の作品は非常にメッセージ性の強いものなのだろう。『西の魔女が死んだ』を自らの体験に重ねる読者は少なくない。いわゆるイジメや、少女の成長といったものに焦点を置いた、感情移入型の楽しみ方だ。
 私は別の読み方をした。
 日本的鬱屈を抱えたまいと、西洋的闊達さを持ったおばあちゃんとの物語。
 寒々しい都会から穏やかな田舎暮らしへ。
 そして最も根底にあるのが生きるということと死ぬということの対比であった。
 けれど、neutralな彼女はそれらを決して対立事項にはさせない。
 おばあちゃんは往々にしてまいにとっての絶対的保護者ではあるが、時に理不尽で、決して万能ではない。それでもまいには、おばあちゃんの強引さが必要だった。田舎暮らしで過ぎる時間は穏やかなものであったが、時折黒い染みのように田舎特有の陰惨さ、そして厳しさがにじんでくる。生活というものの文字通りの輝きの中で、日々を送ることの苦しさを描写することは忘れられていなかった。表題の死、まいを苦しめたその概念は、最後には鮮やかな明るさをもって描かれた。
 そしてそれらの一切が、無理なく、調和をもって収まる世界。それに私は驚嘆した。
 ともすれば共感や感情移入だけを読書の価値としがちな現代の出版戦略の中にあって、彼女の作品はその隠れ蓑の中で、私に純然たる「物語」を楽しませてくれる。

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 どう考えても長すぎです。すみませんでした。
 梨木香歩大好きです。
 でも、『沼地のある~』だけはちょっと違いましたね。
 それまでの彼女らしくない「お話」でした。
 面白くなくはないのですが……今までの「物語」とは明らかに違う、異質な、作品でした。
 その異質さがある意味ストーリィそのものとリンクしてくるところがあったので、それはそれで彼女の作品の歴史なのだと思います。

(昔の日記をちょこっと改訂)


 我が敬愛カニグズバーグ氏の著作の翻訳について、ネット上で大きなムーブメントがあったことを最近知りました。
 03~05年ということで、高校に入ってやたら忙しい毎日を送っていた頃ですので、外側に向ける目が無かったというか。。
 いえ、正確に言えば確かにどこかで耳にした気はするのですが、深く考えるところまでいかなかったというか。
 ともかくもその活動の結果として、「ティーパーティーの謎」「800番への旅」の二作が改訳されたということでした。

 「ティーパーティの謎」はカニグズバーグ氏の作品の中でも更に好きな本だったのですが、それが「改訳」ということで、一体どうなったのかとこの間買ってみたのです。
 しばらく趣味の本を買えていなかったので、漫画やら雑誌やらなにやらと一緒に本屋で散財しまくった結果の産物なのですが(汗)
 結論……断然、新しい方が良い!
 前の版で確かに引っかかっていた部分が消化されていて、読んでいて気持ちが良いのです。
 子供達それぞれの個性や思考、感情の動きが際立っていて、主題の繰り返しという音楽的なこの物語をいっそう魅力的にしているように思います。
 疲れてるとホント涙腺ゆるくなるんですよねえ……もう子供達がみんな良い子で!(涙/何度も読んだ話なんですけれどね)
 こんな孫が欲しいなあと思いながら読んでいました。癒された……!

 児童文学は子供の読むものだ、とは京佐はあまり思いません。
 しかし大人向けの童話、という概念は好きではありません。
 ホントに良い本は、子供の時に読んだ本を、大人になってもずっと読み返していけるもののような気がします。
 ……少なくと私にとっては、ですけれどねえ。
 どうも自己分析してみたところ、おそらく京佐が「小説に感情移入しない」タイプの読み手であることが結構カギになってくるのかもしれません。
 つまり「感情移入できるかどうか」が、あまり物語の評価に反映しないので、子供が主人公だったり彼らの心理状態をトレースしていく物語だったとしても、十二分に楽むことが出来る、ということのようです。
 一人称だったとしても客観視から読んでますしね!
 だから一人称書くのが苦手なんですけどね!
 童話や児童文学は子供の頃だけという方々は、感情移入タイプなのかなあと思ってみたり。
 その辺、どうなんでしょうねえ。

 検索してたらリーピチープがドリアドに歌ってもらった子守唄を見つけました!
 やっぱり瀬田さんの翻訳はステキです。
 古風なのに子供向けの文章が書けるなんて、爪の垢をいただきたいくらいです。。

Where sky and water meet,
Where the waves grow sweet,
Doubt not, Reepicheep,
To find all you seek,
There is the utter East.

空と海おちあうところ、
波かぐわしくなるところ、
夢うたがうなリーピチープ、
もとめるものを見つけるは、
ひんがしのいやはての国。

 リーピチープの方が某アーサー王伝説のランス○ットなどよりよっぽど立派な騎士道精神を持っていると思います。ネズミだけど。
 心正しい騎士だけが探求の末に求めるものを発見できる、という「朝開き丸 東の海へ」のストーリー展開は英国の王道なんでしょうかねえ?


 ナルニア国物語は明らかな勧善懲悪の物語で、キリスト教色が色濃く、そういった意味では私が好きになれないタイプの話です。
 「馬と少年」が一番好きだと書きましたが、ナルニアの敵国カロールメンに対する描き方はあまりに酷い。
 しかもカロールメン世界がどう考えてもアラビアやらトルコやらの「ヨーロッパから見た東方世界」をモチーフにしていることがありありと分かるのが気分が悪いところです。
 カロールメンの神・タシとナルニアの創造者アスランを同一のものとした考え方はなるほどなあと思わされましたが、それでもタシ神を邪神として括ってしまうのもどうかなと。
 それでもこのシリーズに深く感じ入るところがあるのは、全編に貫かれた王とは何か?という考え方にあるように思います。

「はげしい攻め戦ではいつも先頭に立ち、必死の逃げ戦ではいつもしんがりをつとめ、そして国内に飢きんがあれば(つまらぬことがつづく年にはよくあることじゃが)、国民のだれよりも貧しい食べ物を食べながらも、だれよりもりっぱな衣服を着てだれよりも大声で笑ってみせる、これが王というものじゃ。」

 というのがアーケン国のリューン王の言葉なのですが、なんというか、刷り込まれました。
 だから責任のある仕事なんて絶対したくないと胸に誓ったわけですが。
 八千穂は最後の要件を満たせない未熟者です。

 どのような規模の組織であれ、リーダーと呼ばれるならば全部背負う覚悟を持っていただきたい。
 最近の政治的リーダーには求めても無駄というものかもしれませんが……

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